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7/4/2022 大切な父が旅立って逝きました


できるだけ思い出しながら記載していこうと思います。この手記がもしかしてそういった情報を探している人が一人でもいて助けになりますように。


2020年11月下旬、お手洗いに行き、便秘のため力みすぎたのか、立ち上がれなくなり急いで救急車を呼びました。搬送先の多摩病院にて、2日の検査入院。検査入院の結果、そこまでの悪いところはなく自宅に戻ってきたその日の夜、2階の部屋でどうしても寝たいからと、私の言うことを聞かずに2階にあがりその日は休みました。次の朝、起きて下に降りるときに、ふらついたのでしょう。階段から転落。かなり上のほうから足を滑らせたようで、ものすごい音に私も驚いて、駆け寄って大丈夫かと尋ねると、大丈夫と一言。頭を打ったり、どこか怪我したりはしていなかったようで、一安心。ただその後次第に右足がだんだん麻痺するようになり、歩くのが徐々に困難になっていきました。その頃は要支援3で、在宅の先生がおりましたので、もしかして硬膜下血腫ではないかと先生が、多摩病院に行くように勧めてくださいましたので、予約をとり行くことに。それが2021年2月19日のことでした。病院へ行く直前はほぼ歩くのが困難になってきて、私は必死に車いすに乗せて父を病院へ連れて行きました。多摩病院の検査の結果、緊急で手術。病名は在宅の先生のおっしゃる通り硬膜下血腫。11月下旬にはなかった脳内の水と血が脳を圧迫し、右の脳の約4分の一くらいが圧迫されているのが、レントゲンでも明らかにわかります。緊急手術となり、10日の入院となりました。先生によれば、手術はそれほど難しいものではなく、まず頭蓋骨に穴をあけ、そこにチューブを装着。そこから頭に溜まった水と血を徐々に抜いていくというものでした。

手術時間も短くすぐに終わるとのこと。原因がわかりほっとして、手術はあっという間に終わりました。コロナ下であったため、面会はほとんどできなかったのですが、LIINE動画で話をできて、順調に回復しているのがわかりました。10日後の退院に向け、もともとあった心臓の不整脈を直さないと、リハビリ病院へはいけないので、ペースメーカーを付けることを病院側から強く勧められました。このペースメーカーは実は、2020年の夏ごろ、突然右耳が聞こえなくなり、耳鼻科にいったところ、聖マリアンナ医科大学病院を紹介され、検査にいったところ、突発性難聴での治療で使うステロイドは強いので心臓がもたないから

ペースメーカーをいれないと治療できないといわれ、その時は父は如何しても嫌だから

と断っていた経緯があったのです。私と母はどちらかといえば、父のそういった意志を尊重したいと思っていたのですが、結局先生や、弟、うちの主人の勧めでペースメーカ―をいれることになりました。みんながもっと元気になって長生きできるように望んでいたのを母が伝えたのも父の背中を押したのでしょう。こうして3月16日、母の誕生日の日に手術をうけることになりました。私はそのころ、ハワイに一時帰国しており、主人と一緒に動画で

手術前に話すことができました。母は、コロナ下でしたが、特別許可で、別部屋で会うことが可能になり、少しの間でしが、話すことができました。私が手術頑張ってね、そういえば、病院のごはんどう?って聞くと、ふつうだよ、っていう答え。この会話が最後の意識がはっきりしてる会話になってしました。この手術の直後、突然癲癇のほっさがでて意識不明に。ペースメーカー手術は非常に簡単だからと聞いていた私たちには、まったく予想もつかない結果になってしまったのです。その後熱と意識不明、時々起きる癲癇の発作は病院側でまったく原因がわからずに時間が過ぎていきました。一か月たったころ、ようやくその原因が脳の水にばい菌がはいってしまったということがわかり、再度水を抜く手術。3日くらいで水は抜けましたが、思ったように意識は回復しませんでした。3度目の手術をしても結果はかわらず、外科医は無理だと判断されたようでしたが、担当の先生は、もっと長い間で徹底的に水と膿を抜くことを最終手段として提案され、外科医の反対を押し切ってやってくださいました。その結果、すこしづつ意識が回復。目を覚ましたのです。

まったく意識がないとき、最後の手術の前に一度父に会わせてもらうことができましたが、この時は全く意識はなく、がりがりに痩せて、顔色も蒼く、息も苦しそうな状態で、もしかして助からないかもしれないと思っていました。この時点でこの手術のあと何もできることはないので、病院側は、老人病院に移ることを提案されました。そこに移れば、リハビリもしてもらえませんし、ただ、生きているだけの状態になるだけです。私と母は、父をうちに連れて帰ることを決めました。でもこの時点でもしかして助からないかもと思ったのと同時に家に帰ってきたら、元気になるに違いないという確信あり、このまま何もせずに老人病院で最後を迎えさせるなんて絶対にありえないと思ったのです。この時同時に介護の再認定にきていただき、要介護5の認定がおり、家に連れて帰ると病院側に伝えました。そう伝えるとこんな状態で家に連れて帰る方はいない、もし人を雇ったら月に500万円かかると脅されましたが、できる限り私がやりますといい、手術後すこし意識が回復しいよいよ退院の前、介護の方、看護婦さん、在宅の医師のところの看護婦さん、多摩病院の先生、ケアマネさん 介護用具担当の方病院の福祉課の方とのミーティングになりました。その時、先生は99.9%回復は無理と断言されましたが、私は、そんなことはないとはっきり伝えました。心の中で、絶対に大丈夫と確信があったからです。ただ、家で介護はかなりの家族の負担になるということ、その覚悟がありますか?と念押しされました。一番大変なのは痰とりでしょうと。痰の吸引は3時間おきに病院ではやってくれていたようで、家では医療従事者もしくは家族のほかにはやってはいけないことになっています。そのため退院に向けて約2週間多摩病院の看護婦さんが毎日痰吸引、歯磨き、おむつ替え、経管栄養のやり方などを徹底的にご指導くださり、2021年6月15日に父は家に戻ってくることができました。

戻ってきたは数日声もあまりでず、意識も暫くはっきりしない状態が続いていました。しばらくするとだんだん意識もはっきりしてきて、意思疎通もできるようになり、リハビリも頑張れるようになってきました。

退院後は少しづつ食べる練習をしていましたが、すぐに誤嚥性肺炎を起こすので、暮れころからは氷や、ガム、などほかの嚥下のトレーニングをし、一か月に一度の歯医者さんによる嚥下検査。

今年5月の下旬に受けた検査では、小さな氷も飲み込め、あとは舌の押し出すタイミングが良くなればいいという診断結果。以前よりかなり良くなってきておりました。ただ、2022年4月5月くらいから、以前にまして頻繁に肺炎症状を起こし、高熱、酸素レベルの低下、過呼吸など2週間に一度のペースで起き、先生よりステロイドの注射を打ってもらうたびに

その症状が嘘のように数時間でよくなっていました。この回復力には先生もかなり驚かれていていました。

6月8日、また同様の症状のためステロイド注射、すこしよくなってきたのですが、やはり

痰がらみがなかなか収まらないので、2週間の特別指示書をだしていただき、看護婦さんに毎日きてもらうことに。ありがたかったことに、私が2週間ハワイに帰る前に弟にきてもらう日と重なるようにアレンジすることができました。私の不在の間にもかなりの痰がらみなどあり、慣れない弟はかなり苦労したようでしたが、看護婦さんの助けもあり、なんとか乗り切ることができました。ただ2週間後帰ってきたときは、出かける前とかなり違う様子で

今までできていたシャキア運動や、空気の膨らませ体操もできなくなっていて、椅子に座るのも以前は数時間は大丈夫だったのに、すぐに戻りたがりました。口の中もカサカサに乾き、声もほとんどでなくなっていて、まるで退院後すぐのような状態にもどっていました。

そこから一週間で口腔ケアとすこしづつの訓練を経て、徐々にもとにもどりつつあるのかな、と思った矢先、7月4日、朝は通常通りだった父は、昼から急に痰がらみがひどくなり咳が始まりました。熱も急激に上がり始め、酸素レベル低下。急いで先生の往診をお願いしましたが、一時間以上たって、往診は午後、5時か6時といわれ、看護婦さんに電話してきてもらうように依頼。看護婦さんが3時近くに到着するまで、酸素の機械2台つかっても

低下していく酸素レベル。母が美容院からもどってきて、腹式呼吸をおなかをおしてすると

レベルは戻っていきましたが、3時近くになり看護婦さんにお願いし、痰の吸引のため

ドレナージを行ってもらいました。4時近くになると、意識レベルが低下。先生が駆けつけてくれた4時半には処置はこれ以上できないので、覚悟してくださいとのこと。急いで弟をよび、5時半ごろ、先生が帰られてすぐ、息を引き取りました。その時はもう苦しくない状態だったようです。オキシメーターは心臓も動いてますし、酸素レベルも上がっています。

でも父はもうその時には息を引き取っていたようです。

あまりの突然のことに、母も私もその事実を受け入れることはできませんでした。目の前にいる父はいつものように寝てるようにみえます。

今もまだ、他の次元にいってしまったということを信じられずにいます。



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